白魔道士になりたい

常にFLASHBACK

(久しぶりにフルネーム見て、あぁこれだな、好きだなって思った)

今年は行けなかったなぁ。

お義父さんお義母さんとは会わないようにしよう ってのは結構前から決めてたんだけどね。県跨ぎの移動をどうすべきかってのをギリギリまで悩んでしまってた。

万が一、億が一レベルじゃなくって、結構もうありふれた世の中になっちゃったから。しょうがないのだ。

(ぼっちちゃん今年はいいよ、おうちでゆっくり〇〇のこと考えててあげて)

って云ってもらえて、今年の命日は部屋でかっちに浸ってた。

 

 

指輪を磨いたり、アルバムを見たり、アルバムに収まらなくてクッキーのカンカンに入ってる大量の写真を1枚1枚手に取って眺めたり。

手が付けられなくって、ずっと見ないふりしてた、かっちが入院してた時の病院絡みの書類とかこのタイミングで整理出来るかな って思って手を伸ばしてみたんだけど、うーーん。敵は手強い。

みっちりファイリングされた分厚いファイル3冊はぺらぺらめくって終了。

レントゲン写真とか、経過報告書とか見るとさ、当たり前に全部の日付が2016年の7月より前のもので、

今はもう私発信以外であまり見なくなってしまったかっちの名前がそこいら一面に散らばってて、

頑張って生きてくれてたんだな って痛感する。

わかってたけど。知ってたけど。強く痛感する。そんで悲しくなっちゃう。悪い意味で思考停止してしまって、私はたちまち(ダメなやつ)に成る。

話逸れるけど、この引きこもり時期によくなってた(胸の上に子犬でも乗ってんのか?)的現象、頻度は超減ったけど今もたまになる。なる って云うの?ある って云うの?わかんないんだけど、横になってると今もごくたまーに(おっ、子犬現象だ)ってことがある。なんなんだろうねこれ。はい話戻そう。

 

 

外にあまり出られなくなって、引きこもって、家でお酒を飲むか、寝るかしかしていなかったあの時期のことを今振り返ると、決して否定出来ないな って思う。

わかんないけどね。今自分がこうしてここにいるのはあの時期があったからかもしれないし、そんなの関係なくって別の理由かもしれない。

もう私の人生は点と点は線で繋がらないから、どこにどんな理由があって、どこに転機があってとか、それがいいもんなのかよくないもんなのかも正直わかんないんだ。

でも結果論、今ここにいる、生きてるのは事実だから否定しちゃいけないんだろうなってぼんやりと思う。後悔とか反省は沢山あるけど。

 

 

その、引きこもり時期に私がやらなきゃいけなかったこと。

なのにやれずに4年放置してしまったこと。

を、31日にやりにいってきた。

 

 

ずっとね、云ってもらってたんだよ。かっちの会社の人に遺族年金について。

必要書類とかセンターの地図とかまで揃えてもらっててさ。

知ってたし、なんなら途中まで進めてた形跡があった。相談窓口に4年前の8月に行ってた。過去の私。

なのに、途中でもういいやってきっとなっちゃったのかな。

どんな想いかは色々思い出せることがあって、どれがその当時の本当の想いだったかは不明瞭だけど。途中まで進めてた書類の中身をちゃんと見て、あぁなるほど、今だってしんどいやって思った。まじ成長しないな私は。

4年が経って。からの5年目が始まって。

いい加減やらなきゃって想いひとつで手続きを済ませてきた。

 

窓口で対応してくれたおばちゃんに軽く怒られ(大事なあなたの権利なのに!自分大事にしてね!って心配してもらった怒りで、私には響き倒した。本当に感謝してます。そして時効があるらしい)、あーもうほんとだ、ダメダメ過ぎる、でも!でも今日終わらせることが出来てよかった。っていう達成感と脱力感でいっぱいだった。

 

 

 

 

 

 

8月。遅めの梅雨が明けて、本格的に夏が来た。

頑張ってるよ。頑張ってなんとか生きてる。

命日はお義父さんお義母さんに会いにいけなくてメンゴ。

もうちょい落ち着いて安心できるタイミングでちゃんと泊りがけで会いにいくからね。

そして私はアイスばっかりの日々を悔い改めるか…

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0:42ひとりごと

再放送されていた逃げ恥を見ていたら急にお蕎麦が食べたくなって、スーパーに行った。

入口にお盆セットみたいなのがてんこ盛りで、あーもうそんな時期なのかって更に実感する。

4年目のくせにまじで慣れない。

他人さんは関係ない とか思ってたけど、ここ最近すごく気になる。

自分がおかしいのかな。

全然慣れないんだけど。

毎日はガラリと変わって、

住む街も場所も変わって、

生活リズムも変わって、

思考も変わって、

友達やつるむ人も変わって、

お金の使い方も変わって、

価値観も哲学も死生観も変わって、

好きも変わって、

嫌いも変わって、

変わらないことだってあるよ、不変的なものだってあるよ。

けどそんなの片手で数えられるくらいのもので。

もうだいぶ経つからとか、元気になってよかったねとか、

少し前までアホほど云われてた言葉たちすら、最近は誰も投げてこなくなって。

それに関しては寧ろもっと前からこうだったらよかったなって思うことなんだけど、

なんかもう、普通でいなきゃいけないのかーって勝手に思っちゃう自分がここにいる。

普通がなんなんだか取り戻せないから、とりあえず黙っとこう精神が働いて、どんどん溜まってく。

どんどん溜まって、溜まるだけ溜まったら、どうなっちゃうんだろう。

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記念日反応と(言葉がほしい)

一番紐付けされてる出来事が多い月がどーしたって7月だ。

 

最近自分自身に対してあぁこれは記念日反応ってやつなのか?と思う。

体調も安定しないし、まぁ普段からぼうっとしている奴だ と云われればそれまでなんだけど、人から云われる(どうしたの?)の数の増加っぷりがすごい。

そんで大体それ云われる時まじで何にも考えてないというか、本当にぼうっとしてることが多くて、ちょっと自分でも引いてた。うわまたぼうっとしてたよ。なんて。

6月末だし、梅雨だし、じめっとするし、意識的でも無意識でもあぁ、なるほどなぁって思って。

7月末はかっちの命日だ。

 

 

 


毎年、夏はつらいし苦しい。
どの季節にも色んな思い出があるけど、2人でした、行った楽しい思い出!だけじゃなく、失ってしまった後の記憶が脳内に、体にこびり付いて、意地でも忘れてくれない瞬間がある。

 

夏の夕立はかっちの会社帰りを思い出す。
お葬式が終わって数日後。備品を返しに行くのと改めてご挨拶を兼ねた時の帰り道。急な夕立とエンカウントしてしまった。
私がかっちの会社に行ったのはこの時が初めてで、かっちはいつもこの、駅に繋がる道を通りながら(今から帰るよ)テレフォンをしていたんだな とか、じゃあなんで私が今ここにいるんだろう なんて、日常を大きく違えてしまった私を私がまだ全然理解出来ていなくて、混乱と悲しさで泣きながら帰った。
雨と汗と涙で顔がぐしゃぐしゃになって、髪の毛がべとついて気持ち悪かった。


暴力的な夏の日差しは、うなじを焼き尽くされるかと錯覚したかっちの1周忌を思い出す。
納骨したんだ、この日に。
迷って悩んで考えて、というか、今ならわかること、思うことって直面していた2年前とは異なるし、かっちと出会う前ともきっと異なる。
ずっと私はそこまで深く考えてなかったけど、(すぐ納骨してあげよう派)だったと思う。どっちがいいとか悪いとかじゃなくて、先人たちがそうしてきたように、倣うよう、それが正しいことだと思ってた。し、自分もすぐそうするんだと思い込んでた。
でも、実際は納骨するまで1年間の葛藤があったわけだから、実際は起こってみないとわからないことにまみれているんだな、この世界は。なんてことを思った。
そんで今ならわかること ってのは、答えは人の数だけあるってことだけだ。
自分の正しさは他人の正しさではない。
押し付けちゃいけないね ってことだけ。今ならわかること。
話し合いが出来ていたら、かっちの意思として確実なものがあったなら。私はそれに従順になってたと思う。
でも私とかっちは出来なかった。
お葬式どうするとか、お骨はどうしてほしいとか。棺に何を入れてほしいとか。
この話し合いが出来るご夫婦も勿論いると思うし、私はそれを素敵なことだとも思う。単純にいいな、羨ましいなって思ってしまう。
なぜかというと。納骨のことだけじゃなくて、かっちがいなくなってからの日々はどうしたって私がひとりで選ばなきゃいけない。
取捨選択のプレッシャー。何を捨てて何を選べばいいのか。かっちにはもう聞けない。間違ったらどうしよう。かっちの意思が欲しいよ ってどれだけ思ったか。
ほんと、どれだけ思ってどれだけ泣いたかわかんない。
今でも寝る前、目を瞑ってから取捨選択を間違えたような気になって、不安で眠れなくなることがある。
かっちは私が選ぶもの総てをたちまち正解にしてしまう。
これは事実だ。肯定しかされなかった事実が私を強くもしてくれる。
けど、それでも言葉がほしかった。
だから話し合いは大事だし、羨ましく思う。語弊があったらごめんなさい。嫌なふうに聞こえちゃったらごめんなさい。ちゃんと言語化出来なくてごめん。でもそう思っちゃった。

 

 

 

これから梅雨が明けて、本格的な夏がくるのかって思うと気が重くなる。

かっちとの楽しい夏の思い出を拾いに行こう!って毎年思うんだけど、結局4年目の今の今まで行けたことはない。ひよるし、臆病だし、分かった風なんだよなー私はいつもそうだ。直前で怖気付く。やんなるね。
今年はどんな夏を私は生きるんだろう。

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風邪の時に見る夢、大体トンチキ説

熱出てぼうっとしていた。る?か。今もまだ微熱ある状態だ。

 

喉痛いとか、寒気とか、そういう症状はなくってただ体の熱さと怠いなぁってだけ。

熱に浮かされてるといつも以上に過去に依存した自分が出てきて、なんだかなぁって気持ちに圧迫される。これは真っ最中だから、る だ。

 

 

 

 

 

過去に書いた日記(物理)を読んで、6年前の今日はこんなご飯食べてたのか~とか、7年前の6月はこのゲームやってたのか~とか、そんな不毛なことばかりしてしまう。

なにがどうなるわけでもないのに。

過去をなぞって大泣きすることは減った。

本当に減った。

泣くわけでもなく、ぼんやりとページを捲る静かな孤高の過去トラベラーに成る。

減ったんだけど、日が経つ毎に私の中の何かしらがどんどん削れていってしまっている気がするのはなんなんだろう。

もう私には悔やんだりする力がなくなってきてるのかな。

ただ昔を懐かしんで、そこに確かにいたかっちを思い出して、隣にいた自分のことを羨ましいなぁ、幸せ者だなぁって傍観して、今かっちの知らない場所にいる自分のことを思えばこいつは奇妙で珍妙なやつだ。なんて珍しがる。自分って認めてあげてーwww

 

 

たまに、Googleストリートビューで前住んでたマンションまで帰るの。最寄り駅から。ゆーーーっくりスクロールして周囲のお店とか見ながら。

なんにも変わってなくって、まぁそりゃそうなんだけど。

自分の世界が変わったって私以外の世界では朝も夜もちゃんとくるし、街も色も変わらないってことは4年前に痛感済みだ。

 

毎日帰ってた場所をパソコンの画面越しに見て、そこで確かに生きてた時間を考える。

雪の日大変な構造のマンションだったなwwwとか、

1階の中年夫婦、もう深夜にドッカンバトル並みの喧嘩してないかなwwwとか、

すれ違うといっつも洋服褒めてくれた大家さんと犬元気かなぁとか、

洗濯機と冷蔵庫の隙間に入ってよく考え事してたなぁとか、

かっちの寝相と寝言が愉快だった次の日の朝は、報告会じみたことをやってて、(俺そんなん云ってないよ~www)とか寝言なのに謎弁明するかっちが面白くて、可愛くて、なんだかな、もう、うーん、しんどくなってきた。

 

 

 

 

しんどくなって今書いておかなきゃって思ったことなんだけど、

大丈夫だからね!あの、こんな戯言というか、吐き出した言葉みたいなの、現実世界では一切誰にももう喋ってないから大丈夫だよ。

大丈夫だよの意味よwwwって思ったけど!

1.こいつ、精神的にまいってるのではなかろうか?

2.こいつリアルでこんなトンチンカンなこと喋ってたら周りの友達にひかれないのだろうか?

この2個を危惧しての大丈夫!

私はまた新技を会得したのだ。

嘘をつかずに方法は自分から喋らなければいい。

これで大概なんとかなってる。今んとこ。

だからきっと、私は大丈夫に見えていると思うんだ。

喋りたいんだけどね、本当はかっちのことも、過去の私、今の私のことも。

勿論誰彼構わずってわけじゃあないから、口を噤む。もうそれでいいやって思っちゃった。

 

 

 

 

 

 

今だって悪いことしかないなんて云わない。

オンラインで友達とゲームしたりして遊んでるし、

音楽は休み中だけど作業は出来てるし、

楽しいコンテンツや笑えるネタ、すぐ傍にいっぱいあるよ。

全部が絶望で全部が悲しいことなんてない。

他人さんから見たら、どうにかしたかったことがあって、それをどうにもできなかったっていう事実があるだけだ。

それって大なり小なり沢山のひとが抱えてることなんだろうなってのは理解してるつもりだから、

自分が一番大変だ なんて毛頭思わないけど、

しんどいな って思う時はそりゃ多いな。それもまたしんどいしつらいな ってだけの話なのだ。

まわりくどい云い方でメンゴwww

ひっちゃかめっちゃかだな~。まぁいいや。ちゃんときれいに言語化したいんだけど、ちょっとその気力が今はもうないwww

 

みんなが優しい世界に身を置けて、ちょっとでもマシになればいい。気持ちがちょっとでも楽な場所に居られればいいな なんて思う風邪引き女の駄文でしたまる。

 

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17:09ひとりごと

かっちが何が好きだっただとか、

何が嫌いだっただとか、

私だって彼の100は知らないし知れないけど、

こういう考え方をする人だったとか、

こんなことで笑う人なんだとか、

脳内で沢山の私を集めてもれなく全員私で話し合うくらいしか出来ないの。

かっちのお義父さんお義母さんに今とても会いたいけど、

今会いにいく選択肢はないし、

LINEの友達一覧で必死に誰かを探そうとしてるんだけど、

誰かがわからないんだよなぁ。

私そういった時の(誰かの誰か)に成りたいって強く思ってた時期が昔にあったんだけど、

半端ないハードルの高さよなよこれ。って思った。

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底はなかった。

私は過去の私が羨ましい。

このブログでも散々書いてきたけど。昨日、会社の人と話しててより強くそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

自分でも自分のモチベーションの保ち方がもう随分バカになっているなぁってのは結構前から感じていた。

自分の機嫌を自分でよく出来ない人間なんてアホだなぁなんて昔は思っていたのだが、そんな些細なことさえ、微調整が上手くいかない。

 

まずは、(昔は出来てたのに!)と(でも現状出来てない)の差異を私ははっきり感じてしまって、落ち込む。

それと同じようなことなんだけど、器のキャパが極端に狭くなってきている。

昔だったら、他人さんが何を言おうが何をしようが(まぁそういう考え方の人もいるよね~)なんてふんわりかわして、家に帰れば楽しい日常。あったかいご飯食べて、ゲームして、ちょこっとかっちに笑いながら愚痴って、共感してもらって、気持ちよく寝ちゃえば翌日にはあれまぁすっきり。

今は何かひとつ、気になることを云われたりしたらその場では返さないけど、家に持ち帰って、出来事をゆっくり頭の中でなぞって、云われた言葉や発言に理屈や理論が通ってないことを再確認してから、持ち帰った状態はまだモヤモヤだったその気持ちがふつふつ怒りだったり呆れに推移して、(もうこれ以上関わるのをやめよう)って決断してしまう。

初めから後者タイプの人もいるかもしれない。

てか珍しくないと思う。

ただここで私が云いたいのは、(私は、前者の私が好きだった)ってことだ。

 友達に後者タイプもいるけど、私はとても好きな友達だし、尊敬もしてる。

私軸で考えただけの話なのであしからず。

 

許せる自分が好きだった。自己満足だけど。ポーズかもしれないけど。

前にも書いたけど、帰る場所のある人間の強さって本当にすごい。

共感して、肯定してもらって、ちゃんと叱咤もしてもらえる。

好きな人に。尊敬する人に。唯一の人に。

許せる自分を肯定してもらていた私を今の私は痛いくらい知ってるから、今との差異が単純にしんどい。広がれば広がった分だけちゃんとつらいし痛い。

 

 

 

 

 

 

 

会社の人と、過去の自分・今の自分について話をしていた時に、会社の人は、

(自分は結構昔に遡って、あの時ああしとけばよかったなぁってことがいっぱいあるよ。だから振り返る)って云ってた。

私は明確に違った。だから私は違うって云った。

 

勿論あったよ。あの時ああしておけばとか、なんでこっち選ばなかったんだろうとか。そんな(もし)とか(れば)の積み重なって出来た山の中で、ずっと生きてきた。

でも今はもう明確に違ってしまった。

どんな取捨選択をしても、今は変わらないんだ ってなんだか気付いたのだ。

悔やむことは沢山ある。反省することも、嘆くことも、悲しむことだって当然ながらある。

悲しみに底はなかった。

後悔に底はなかった。

喪失感に底はなかった。

これが多分4年目現状の答えだ。

 

(ただ、昔のヘラヘラしてた、ヘラヘラでよかった自分が羨ましくて羨ましくてしょうがないんです。だからもうたらればとかより、後ろを振り返る度にぼーっと指咥えて見ているだけなんですよね。あーいいなぁ って。)

 

なんとも返し難いんだろうなって回答ももう全然出来るようになってしまった。

数を経て、それは私の考えなくていいところなんだ って割り切れるようになってしまったからだ。

でもやっぱり、昔の(何て返したら相手にとっては楽かな?)を模索していた自分が好きだったという事実が今の私につきまとってきて離れない。

夜寝る前とかにふと思い出しちゃって気持ち悪くなる。

いじわるだったかな、とか、不安になる。

ここでは本当にいつでも不安100%で笑うwww誰にも云えないよ。

今年は出来る限り嘘をつかないようにしたいって思ったから、自分からかっちの話はしてない。どっかしらで嘘をついたり誤魔化したりしないと会話が成立することがとても難しいって気付いたのだ。

というか云ってもわかんないし、わかんないのなんて当たり前なんだからしょうがないのに、しょうがないってわかってるのに、それにちゃんとへこむのが嫌だ。自分がしんどくて、つらくて、痛い思いは極力したくない。

めんどくさいやつだなって思う。

でもかっちの話はしたいんだ。

すっごくしたいの。

だからめんどくさいやつ。

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1:34ひとりごと

前にブログを書いた時からも日々は変わってく。

私はというと、決まってた4月のライブは辞退した。

でも仕事には行かなきゃいけない。前書いた通り、そこは運ゲーのまんま。確率は日に日に上がってく。

もしかしたら自分がもう既に保菌者だったら って考えながらの生活は確実に蓄積型のストレスだし、なによりかっちの実家、自分の実家、妹の家には暫く行けない。

私はかっちのいない東京にいる。

でも私が選んで、今もここにいる。

今はお花見の季節でさ、SNSには(来年いっぱい見に行こう)って文字が飛び交ってて。

その文字をスクロールしながら、(来年がない人も確かにいるんだよなぁ)なんて考えてた。

私にだって、来年があるなんて約束されてないからわかんないし。

今の時期に抗がん剤で入院中の方とか、そのご家族、その人のことを大切に想う人たちはどう過ごしているんだろうって考えるだけで、喉が閉まって鼻先がツンと痛くなる。

肺炎なんて起こしたらって考えるだけで恐ろしい。

闘病中ってだけで遥かにハードモードなのに。もうこれ以上悲しい想いをする人がいなくなればいいのに。とか、非現実的なことばかり頭をぐるぐるかすめる。

くらいには、情緒不安定な毎日だ。

今回の新型コロナウイルスの件で周りのクリエイター友達やお世話になってる方々にも沢山影響が出てしまていて、そんな悲鳴を毎日四方八方から聞いていたら色んな声に感情移入しそうになって、心が疲弊してきてしまっている感じ。

スーパーからは物が消えて、開店前のドラッグストアにはお年寄りが毎日毎日長い列を作っている。それを横目に電車に乗って仕事に行く。

一個前のにも書いたけど、がむしゃらに守りたいものがみんなあるんだろうな。

あるからみんな、そんな必死なのかな。

薬局でこの前初めて遭遇したよ。店員さんに怒鳴ってマスクの入荷日を聞くおばさん。と、その娘。うわーツイッターで沢山こんなん流れてきてたけどマジじゃん… ってびびった。びびったし引いた。

がむしゃらに守りたいものあったら、かっちが居たら、私もそっち側なのかな。

わかんない。

わかんないけど、もう何にも悲観したくないのに、嫌になりたくないのに、がっかりしたくないのに、って想いがどんどん私の中に溜まってく。

きっついなぁ。

 

 

 

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